~人生の幕が下りるとき~音楽劇『ライムライト』(2024/8/23@梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ)【観劇レポ/感想】

舞台レポ

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こんにちは、しろこです。

世の中には、「名前は聞いたことがあるけど実際に◯◯(見た、食べた、読んだなど)したことはない」というものがたくさんあると思います。

風景だったり、食べ物だったり、動物だったり、本だったり、それはもうたーっくさん!

チャップリンの不朽の名作『ライムライト』

・・・という表現を聞いたことはあっても、映画を見たことはありませんでした。

『ライムライト』の曲は知っていても、実際は歌詞がついた歌(『Eternally』というタイトル)だったということも知りませんでした(オーケストラやジャズバンドが演奏するインストバージョンしか聴いたことがなかったので…)。

『ライムライト』という言葉は知っていても、意味をちゃんと調べたことはありませんでした。

ライムライト(limelight)

1a 石灰光; ライムライト, 灰光灯 《酸水素炎を石灰に吹き付けて出す強い白色光; 昔多く舞台照明, 特に主要人物の集中照射に用いた; cf. calcium light》.
b (舞台の)ライムライトに照らされる場所.
c 《英》 スポットライト (spotlight).
2 [the ~] 衆目を集める立場, 注目の的.

出典:新英和大辞典

辞書を引いたのは観劇後のこと。

タイトルの意味を知って、作品をもう一度噛み締めました。

本記事には芝居のネタバレを含みます。

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あらすじ

1914年、ロンドン。ミュージック・ホールのかつての人気者で今や落ちぶれた老芸人のカルヴェロ(石丸幹二)は、元舞台女優のオルソップ夫人(保坂知寿)が大家を務めるフラットで、酒浸りの日々を送っていた。

ある日カルヴェロは、ガス自殺を図ったバレリーナ、テリー(朝月希和)を助ける。テリーは、自分にバレエを習わせるために姉が街娼をしていたことにショックを受け、脚が動かなくなっていた。

カルヴェロは、テリーを再び舞台に戻そうと懸命に支える。その甲斐もあり歩けるようになったテリーは、ついにエンパイア劇場のボダリング氏(植本純米)が演出する舞台に復帰し、将来を嘱望されるまでになった。かつてほのかに想いを寄せたピアニストのネヴィル(太田基裕)とも再会する。

テリーは、自分を支え再び舞台に立たせてくれたカルヴェロに求婚する。だが、若い二人を結び付けようと彼女の前からカルヴェロは姿を消してしまう。テリーはロンドン中を捜しまわりようやくカルヴェロと再会する。劇場支配人であるポスタント氏(吉野圭吾)が、カルヴェロのための舞台を企画しているので戻って来て欲しいと伝えるテリー。頑なに拒むカルヴェロであったが、熱心なテリーに突き動かされ、再起を賭けた舞台に挑むが・・・。

『ライムライト』オフィシャルサイトより

配役

カルヴェロ:石丸幹二
かつて一世を風靡した老芸人。テリーを救う

テリー:朝月希和
バレリーナ。人生を悲観し自殺を図る

ネヴィル:太田基裕
作曲家。テリーの初恋の相手。テリーに想いを寄せる

ボダリンク:植本純米
エンパイア劇場の演出家

ポスタント:吉野圭吾
エンパイア劇場の支配人。カルヴェロと旧知

オルソップ夫人:保坂知寿
元舞台女優。現在はカルヴェロの住むフラットの大家

バレエダンサー:中川賢/舞城のどか

上演時間

【1幕】18:00~19:00

【休憩 25分】

【2幕】19:25~20:30

全体を通しての感想

石丸幹二さんと朝月希和さんがメインキャストを務めるということで観劇を決めたのですが、切なかったり温かかったり、端的に言葉にするのが難しい作品でした。
どの作品にもある程度当てはまることではありますが、自分の歳や人生経験によって、作品全体の感じ方や胸に迫る台詞が大きく違う作品だと思います。

人生に悲観し自殺を図ったテリーを偶然助けたカルヴェロ。
助かっても生きることに決して前向きになれないテリーに、カルヴェロは言います。

「人生に意味なんていらない。欲望のままに生きればいい。バラだって岩だって欲望のままに生きている」

人生の意味を考えるのは人間の性なのでしょうか。
私も20代まではよく考えていましたが(子供の頃から自殺願望が強かったもので(^o^;))、40歳目前となった今、「意味なんていらない」の意味が分かるようになってきました。

この世には自分の意思で生まれてくるのではありません。「I was born」(生まれさせられた)なのです。

カルヴェロの励ましに初めて笑顔を見せたテリーに、カルヴェロはさらに言います。

「意味なんてなくても、素晴らしい瞬間はある」

草葉についた朝露のきらめきだったり、抜けるような青空だったり、コンクリートの隙間から生えている花だったり、不平不満を言いつつも生きていることを疑わない時には気にも留めないもの。そこにあることすら気がつかないもの。そんな取るに足りないものが、死が隣にあると認識した瞬間、素晴らしいものに思える(しろこ、経験者は語る)。「日常」や「当たり前」なもの(事)ほど、実は素晴らしいのですが、人間はなかなかそのことに気がつかない。気がついたとしても、喉元過ぎればなんとやらで、すぐに忘れてしまう。

「若者は生きることを捨てたがる。年寄りは生きることにしがみつく」

生きることにしがみつくのは、家族だったり友人だったり仕事だったり、死ねない理由が増えるからということももちろんあると思いますが、◯◯に行きたい、✕✕をやってみたい、△△が食べたいなど、カルヴェロの言う「欲望」が増えるからなのでしょう。週末に見たい映画があるとか、秋になったらサンマが食べたいとか、そういう些細な欲望が、実は一番の生きる原動力なのかもしれません。そう思うと、「生きる意味なんていらない。欲望のままに生きればいい」という台詞がますます腑に落ちてきます。

落ちぶれたカルヴェロに来た、久しぶりの仕事の話。

すっかり引き合いがなくなっているにもかかわらず、ギャラや自身の扱いを聞くカルヴェロに対し、マネージャーは「現実を見ろ」と言います。

カルヴェロは本当に自分の置かれた状況が分かっていなかったのか、それとも分かっていながら虚勢を張って聞いたのか、どちらとも取れるシーンですが、私は後者だと思いました。

テリーから愛を告白されても、「こんな老いぼれと…」と彼女を頑なに拒み、「若い者同士、君はネヴィルと…」と、テリーとネヴィルが一緒になることを願う。そんな人物が、自身の置かれた状況を理解していなかったはずはありません。

舞台に返り咲くことを夢見ていながら、現実を突きつけられる。

理想と現実の乖離に打ちのめされるのは、誰しも必ず一度や二度は経験があることでしょう。かつての成功が大きければ大きかった人ほど、チヤホヤされた人ほど、そのダメージは大きい。

まぁ、オエライサンたちや自分の周り(仕事関係)を見ていると、現実社会では自分の置かれた状況を分かっておらず、いつまでも幅を利かせるジジイやババアが多くて嘆かわしい限りですが。

自暴自棄になったカルヴェロを、今度はテリーが励まします。

しかしカルヴェロは、今やエンパイア劇場のプリマバレリーナとなったテリーから離れ、流しの芸人に。恥も外聞も捨て、偶然再会したネヴィルに「世界中が檜舞台」と告げます。

虚勢だったとしても、これがカルヴェロの本心だったのかもしれません。「かつて一世を風靡した芸人」としてではなく、「イチ芸人」としての矜持と言うべきか。

ネヴィルからカルヴェロの居場所を聞いたテリーが、カルヴェロを訪ねてきます。

カルヴェロに「君は変わらない。でも少し大人になった」

と言われたテリーは

「一人だと大人になる」

と返します。

実際、テリーの周りにはエンパイア劇場の人々や応援してくれるオルソップ夫人がいたでしょうし、軍隊に入ったネヴィルとも手紙のやり取りをしていたので、テリーが一人だったわけではありません。でもテリーは一人だったと思っている。事情は違えど私にも覚えがあるので、この「一人だと大人になる」は胸に刺さりました(そしてしろこは大人になった…遠い目)。

他にも、

「人は皆、自分を軽蔑しながら生きている」

「生きることは苦しい」

「時間は偉大なる作家だ。常に完璧なエンディング書き上げる」

など、含蓄のある台詞が作品中に散りばめられています。

死が迫るカルヴェロが挑む最後の大舞台。

観客はテリーやポスタントが用意したサクラ。笑う箇所や拍手は全て事前に仕込まれたもの。

自分に向けられた拍手を、カルヴェロは本物だと思ったでしょうか。

テリーたちの優しい嘘だと気づいていたものの、それを分かった上で、気づかないように振る舞っていたのでしょうか。

その時すでに、カルヴェロは夢か現実かの区別がつかない状態になっていたとしたら、前者の解釈も十分ありえる。
でも、相手をおもんばかることができるカルヴェロなら、後者の解釈もあって然るべき。

石丸さんがインタビューで、「初演(2015年)から約10年経って、自分自身もカルヴェロの年齢に近くなってきたこともあり、カルヴェロが言いたかったこと、チャップリンさんが言い残したかったことがより理解できるようになってきた気がする」とおっしゃっていましたが、観劇する側にも同じことが言えると思います。

映画の方は分かりませんが、音楽劇『ライムライト』に関してだけ言えば、この作品には悪人が出てきません。登場人物全員が、それぞれの程度、それぞれの形で誰かを思いやっています。

親子以上に歳の離れたカルヴェロとテリー。

テリーのカルヴェロへの愛と、カルヴェロのテリーへの愛は、強さは同じでも形が違う。だから切ない。

カルヴェロの死後、きっとテリーとネヴィルは結婚するんだと思う。そしてきっと、2人の中にカルヴェロは生き続ける。

♪若者は輝き 年老いた影は消え
ライムライトは魔法の光
愛する君のため輝く光

あの美しい旋律に、こんなにも切ない歌詞が乗っていたとは知りませんでした(日本語訳には少なくとも2種類ありそうです。もう一つは「森山良子 Eternally 歌詞」で検索すると見られます。こちらの歌詞も泣けるの。。(;_:))

本作は音楽劇であって、大ホールで上演するようなミュージカルではないので、歌やダンスは抑え気味(テリー役の朝月さんは元宝塚歌劇団のトップ娘役なので、バレエシーンはさすがでした!)。
キャストも少ないので、メインの3名以外は複数の役を演じています。吉野圭吾さん、保坂知寿さん、植本純米さんが脇を固めるなんて贅沢すぎる! いい味出まくりです! 石丸さんと吉野さんと保坂さんが出演しているのに、誰一人歌い上げるタイプの歌がないというのも別の意味ですごい!(いやまぁミュージカルじゃないからね。。)

私はまだ人生の終わりが見える歳ではないし、命に関わる病気を患っているわけでもない(もちろん、明日突然死ぬ可能性もあるけど)。

若いテリーの幸せを一心に願い、相手の背中を押し、人生という舞台から静かに身を引くカルヴェロ。
自分が何歳まで生きるかは分からないけれど、老人と呼ばれる年齢に自分もなるのであれば、カルヴェロのように若者の背中に優しく手を置き、そっと押すことができる人間になっていたいと思いました。

人生の幕が下りるとき、自分は誰かの心に何かを残せているだろうかーー。

そう思わせてくれる作品です。

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