~終わりがあるから~宝塚歌劇雪組公演『ポーの一族』(2026/8/1@宝塚大劇場)【観劇レポ/感想】

宝塚レポ

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本記事は芝居の若干のネタバレを含みます。

こんにちは、しろこです。

雪組で『ポーの一族』を上演すると知った時、最初に思ったのは、

「チケット無理だろうな…」

でした。戦う前から気持ちで負けてた(苦笑)

ですが先行抽選に手当たり次第に申し込んで、ラッキーなことに当選!

8年前に花組で初演された時の美しさと妖しさはそのままに、より「愛」と「哀しみ」に焦点を当てた内容になっていました。

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あらすじ

イギリスの片田舎スコッティの村近く。幼いエドガーは赤ん坊の妹メリーベルと二人、乳母に置き去りにされ途方に暮れていたところ、一人の老婆と出会う。
老ハンナと名乗るその女性に導かれ、エドガーは森の奥にあるバラに囲まれた館に足を踏み入れる。
13年後、シーラという若く美しい貴婦人が村を訪れる。シーラはエドガーに、老ハンナの許可が下りれば、今夜フランク・ポーツネル男爵との婚約式を挙げてもらえるのだと嬉しそうに語る。
婚約式の様子を覗き見たエドガーは、老ハンナたちが永遠の命を持つバンパネラ、“ポーの一族”であることを知る――。

『ポーの一族』公演プログラムより一部抜粋

主な配役

エドガー・ポーツネル:朝美絢
永遠の時を生きるバンパネラ。

メリーベル:音彩唯
エドガーの最愛の妹。

フランク・ポーツネル男爵:瀬央ゆりあ
エドガーの義父。

シーラ・ポーツネル男爵夫人:小桜ほのか
エドガーの義母。

アラン・トワイライト:縣千
町一番の有力な家の子息。

ブラヴァツキー:美穂圭子
霊能力者。

ジャン・クリフォード:華世京
医師。

ジェイン:華純沙那
ジャンの婚約者。

全体を通しての感想

衣装、曲、コーラス、そうそう、こんな幕開きだった。

原作マンガは読んだことがありませんが、前回花組で上演した時に、登場した瞬間から明日海りおさんのエドガーに心を掴まれました。ほんとに二次元の世界から飛び出してきたみたいな衝撃だった。

8年ぶりの再演となった今回も、朝美エドガーにスポットライトが当たった瞬間、「うわぁぁぁぁ」となりました。公演ポスターを見た時点でも「おおぉぉぉ」となってましたが(語彙はどこにいった(^o^;))。

非常にスピード感のある場面転換ですが、原作は知らなくてもストーリーテラー的な登場人物たちがいるので大丈夫だと思います。ただ、時代の転換があるので、オフィシャルサイトの人物相関図を見て、誰がどの時代の人物かだけは頭に入れておいたほうがいいかもしれません。

冒頭から、『ポーの一族』の舞台化を夢見て宝塚歌劇団に入団したという小池修一郎氏の、演出に対する並々ならぬ気合いを感じます。

「この世ならぬもの」の存在を描いた作品。ジャンルで言えばファンタジーなのでしょうが、ファンタジーと聞いてイメージする夢々しさは微塵もありません。虚無感や喪失感、決して満たされることのない渇望感、絶望、心の深淵などを描いたダークファンタジーです。

老ハンナの冒頭のセリフ「人間以上に恐ろしいものなんていないさ」が象徴しているように、バンパネラという存在を通して人間の醜さや恐ろしさをあぶり出しているという点では、『フランケンシュタイン』に通じるものがあります。

真那春人さん演じる村人のビルは、妻はバンパネラに殺されたと信じて疑わない。
間接的にそうなった可能性もゼロではないんだろうけど(いくら牧師が「私が看取った」と言っても、亡くなるまでの経緯は不明なのでね…)、よく知らない相手に対する、思い込みから生じる憎悪と自分たちの一方的な正義が、バンパネラのジェノサイドに直結する。

昔も今も、同じようなことが現実社会で実際に起こっているから、フィクションの中に凄まじいリアリティを感じて寒気がします。大局を冷静に見られる人が1人いたとしても、悲しいかな集団心理が引き起こす群衆の狂気には敵わないものなのでしょうね、きっと…。

エドガー、ポーツネル男爵、シーラの3人が2部で歌う曲で、男爵の歌詞に「怖いのは信仰だ」「自分と違うものを排斥する」とありますが、作品の舞台が宗教色が非常に濃い時代・土地(さらに、「一つの村」という超閉鎖的な空間)であることを考えると、「排斥」の意味合いが、日本で言う「村八分」とは全く違います。

生きていく上での指針や心の拠り所となる健全な信仰なら結構ですが、神や仏は「自分(たち)と異なる者を排斥せよ」なんて一言も言ってないと思いますけどね。(ね、どっかの国の曲がりなりにも「指導者」と呼ばれるお人たち?)

どの時代においても、どの場所に行っても、よそ者で異質な存在とみなされるバンパネラ。
永遠に変わらないものなどない世の中で、永遠に変わらない存在であり続ける。

生は死の始まりであり、死は生の始まりなのだとしたら、彼らは始まりも終わりもないまま茫洋と時を漂う存在ということになる。
しかし彼らは、生き続けるためにどう生きていくかを考え続け、時代にも場所にも適応しようと努め続けている。

バンパネラのほうが、人間よりよっぽど生きることを真剣に考えている。
それは彼らの運命のためではあるが、皮肉なものである。

終盤でエドガーがクリフォードに向かって「存在していたよ。君たちよりずっと前から」と言いますが、そうした存在に対して畏怖の念を抱くならともかく、理解できないものとして消し去ろうとするのが、人間の驕りであり愚かさであり恐ろしさだよなぁ。。。

人も動物も植物も水も空気も、当たり前のように身の回りに存在している。「存在している」という事実すら気に留めることもない。でも、本当に当たり前に存在しているものなど何一つない。宇宙の歴史の中で、地球の歴史の中で、日本の歴史の中で、一族の歴史の中で、何か一つでも違っていたら存在していないんだから、本来はこの世に存在しているということ自体が奇跡のはずなのに。

あ、私は子供の頃から寺社仏閣は好きですが、別に宗教論者でも何でもありませんので(^o^;
ですが、八百万(やおよろず)の神や修験道の教え(それこそ「信仰」)は、今という時代だからこそ認知度が上がればいいなと思います。一神教を信仰する人たちからしたら、ぶったまげるような考え方でしょうが(笑)でも、理解はできなくても、そういう考え方もあることを知る・気づくことが大切なのではないでしょうか。

地球ができて46億年、人類が誕生して700万年、人間活動が地球や生態系に顕著な悪影響を及ぼすようになったのが産業革命からだとすると、たった250年で地球はこの有様。戦争は大昔からあったけど、今の戦争は武器の破壊力の次元が違う。

人間は、見えるもの・見えないものを含めた数多ある存在の一つにすぎないのだから、もう少し謙虚にいられないものだろうかと思うけど、良くも悪くも脳が進化した結果がコレなのでしょうかね。

家族(一族)になろうとするポーツネル男爵たち。
家族(親族)が崩壊しているトワイライト家。

互いに欠くことができない存在として繋がっているポーツネル男爵たち。
損得勘定で繋がっているアランの同級生たち。

適応しようとするバンパネラ。
排斥しようとする人間。

一途な愛を貫くポーツネル男爵とシーラ。
色恋に奔放なクリフォード、レイチェル(アランの母)、ハロルド(アランの伯父)。

バンパネラと人間の様々な対比が、物語の中に散りばめられています。

両者の違いが「死ぬ」か「死なない」かだけだとしたら、何だかんだ言っても人間のほうが幸せな気がします。

終わりがある幸せ。

終わりがあると思えたら、今は辛くても踏ん張れることがある。踏みとどまれることがある。

終わりは希望でもある。

終わりがあるから感じられるものがある。残されて学ぶことがある。

もちろん、不老不死であれば、問題を将来世代に先送りすることなく皆が自分事として考えて、何とかして解決しようと努力するのかもしれないけれど、これは考え方や気持ち次第で我々も今すぐにできることですもんね。

終わりがあることに感覚的に気がついているかは人によると思います。でも、終わりがあるということを知っていて、限られた時間をどう使うかを考え決められるという点において、人間は幸せなのかもしれません。

以上、真面目な感想でした。

ここからはキャッキャッした感想に移ります(笑)

ピュアな少年だった人間のエドガーが、老齢な翳りを帯びた少年バンパネラのエドガーになる。

背格好など分かりやすい見た目は変わらないけど、表情だったり声の高さだったり抑揚だったりが、人間だった時とバンパネラになりたての時とバンパネラになって100年以上経った時とで全然違いました。1人の人間を幼少期から老年期まで演じるのとは全く違う難しい役だと思いますが、セリフがない部分でも動きだけで違いが分かりました。

1幕ラストの銀橋で、ピンスポが消える直前に、牙をむき出しにするかのように口をカッと開けます。
エドガーの人間の血に、バンパネラの血が勝った瞬間だと思います。皆さん、オペラグラス、ロックオンしていてください!

ポーツネル男爵は、そりゃシーラも永遠の愛を誓うわ…と思わせてくれる美しさと包容力。
男爵のシーラに対する愛は、当初は利己的な愛だったのかもしれないけれど、今回の再演版ではシーラを一族に加えたことへの複雑な想いを歌った曲が追加されていたこともあって、より魅力が増していました(初演の瀬戸かずやさんの男爵も素敵だったけど♡)。

男爵のエドガーに対する振る舞いは、ともすれば虐待と取られかねない部分もあるけれど、人間に紛れて生きていく・生き続けていくための心構えや考え方を教え込もうとしてるんですよね。エドガーも反発しながらもそれは分かっていたから、男爵とシーラが消滅した時に嘆き悲しんだわけで。。。
男爵とエドガーが衝突して、盆回りで舞台転換するシーンが何度かあるのですが、見えなくなるまで追っていたいぐらいグッと来る表情をされています、瀬央男爵。
舞台上に残るエドガーも見たいけど、盆回りで退場する男爵も最後まで見ていたい。非常に悩ましいシーンです。

前作『ボー・ブランメル』で初めて認識した華純沙那さん​。今回は前作で演じられたデボンシァ公爵夫人とは真逆の、清楚で控えめな女性ジェインを演じておられます。

上手いわぁ。。すでに役の振り幅が大きい。ジェインは決して弱い女性ではないと思うけど、きっと気が触れて廃人状態で余生を送ることになるのではないかと思わずにはいられない退場シーンでした。ジェインの最後のセリフ(というか、叫び)、心して聞いてください。

今回「おっ!この人誰!?」と思ったのが、トワイライト家の執事。
演じているのは麻斗海伶さん。初舞台は2015年というから、、、今まで存じ上げなくてすみませんでした。。。(プログラムによると、スコッティの村のシーンでは村長を演じているようです)
腐り切っているトワイライト家ですが (言い過ぎ?)、この家で唯一誠実なのはこの執事に違いない!と思わせてくれる芝居をされています。
終盤でアランを捜す時しか大きなセリフはないものの、トワイライト家に心から仕えていることや、アランや他の子供たちを常に気にかけていることが、表情や立ち居振る舞いから見て取れます。アランがいなくなったことを最も案じ、自分にできることがあったのではないかと自責の念に駆られ、彼の存在を生涯最も覚えているのは、アランの母親でも伯父でも婚約者でもなく、執事なんじゃないかと思います。

そして何と言ってもこの方を忘れちゃいけません。美穂圭子さん! 宝塚のディーヴァがついに退団されます。。。。。。( TДT)
退団公演の役は、霊能者ブラヴァツキー。見た目は怪しいけれど、力はある程度本物っぽいクセつよな女性。
声の迫力と説得力は言わずもがなな美穂さんですが、最後の作品で「美穂さんのこんな声聞いたことない!」と思うコミカルな声(セリフ)を披露してくれています。一瞬我が耳を疑ったほど(笑)
エトワールも美穂さんで、これはもう、集大成と言っていいですよね。。。登場するだけで舞台が締まる、登場するだけで空気を変えることができる稀有な役者さんでした。。(;_;)

今回、物語のラストで非常に珍しい舞台装置が登場します。特に2階席の方、期待していてください☆(装置が前後する時に結構ガタガタしてるけど、あの揺れはどうにかして軽減できないのだろうか…)

バンパネラ役の皆さんと縣さんは、男役にしては化粧がかなり白め。なので、フィナーレで芸名の男役として男役の衣装で登場すると、どうしても顔が浮いて見える、、、けど、ここは目をつぶりましょう(;・∀・) それでもカッコよさは変わりませんから!

一本物の時は役の衣装でパレードの大階段を下りてくることが多いですが、朝美さん、音彩さん、瀬央さんはパレード用の衣装&羽根ありです。朝美さんの羽根がキラキラしていて眩しい☆(エトワールを務めた美穂さんの衣装もゴージャス!)。

今回も、大階段を下りてくる朝美さんを迎える時の、瀬央さんの満面の笑みが印象的でした^^ 見ていてものすごく微笑ましい♪

雪組の次回作はオリジナルの日本物(『陽炎(かげろう)のごとく』-長州青春譜-)であることが発表されました。作・演出は、私がドはまりした花組『蒼月抄』を手掛けた熊倉飛鳥氏!

これはもう、期待大だわ( ̄ー ̄)ニヤリ

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