【書評】『わかりやすさの罪』(著:武田砂鉄)『たちどまって考える』(著:ヤマザキマリ)~自分の頭で考えることの大切さ~

書評

<こんな人におすすめ>
・流行や今の世の中に違和感がある人
・情報に流されやすい人
・メディアや政治に対して懐疑的な人

同時期に手に取った2冊の本がある。

それぞれ別の時期に図書館で貸出予約をし、たまたま同じ日に借りることになった。

なんの偶然か、文体は全く違えど、この2冊が言わんとすることの本質は同じであるように思う。

共通するのは、『自分はどう考えるのか』ということ。

量産される『わかりやすさ』や耳障りのいい上辺だけの言葉、膨大な情報を切り取って流布させる危険性、そしてそれらを疑わない人々に警鐘を鳴らす。

まず紹介するのは『わかりやすさの罪』(著:武田砂鉄)

最初に断っておくが、すんなり読み進められる本ではない。普段あまり本を読まない人にとっては、途中で読むのをやめてしまうかもしれない。

文章量や文字の大きさがどうということではない。一文が長く、どこかとらえどころのない文章なのだ(下手な文章だと断ずる人すらいるかもしれない)。

それにしても、わかりやすいことを何よりも良しとする風潮はいつから沸き起こったのだろう。

本でもネットでも、『すぐわかる◯◯』や『一番わかりやすい✕✕』のようなタイトルがごまんとある。

たしかにわかりやすいことが何よりも大切な場合もある。

たとえば取扱説明書。
わかりにくい取扱説明書など意味がない。
これに異論を投じる人はおそらくいないはずだ。

ウェブサイト上の記事もしかり。
何かを検索する人は、手っ取り早くその答えが手に入ることを望む。
たしかに私も検索するときはそう思っているし、ブログの記事を書くときはわかりやすく読みやすくを意識している(だいたい、著名人のブログならいざ知らず、一介の庶民が書いたわかりにくい文章など誰が読もうか。わかりにくければそれだけで読むに値しないと判断される)。

だが、世にはびこる『わかりやすさ』は危険をはらんでいる場合がある。

厄介なのは、「それははたして真実なのか?」と疑うことをしない限り、その危険性に気がつかないことだ。

危険性に気がつかないだけでなく、それを真実だと信じ込み、あらぬ方向に暴走する(もちろん暴走している本人たちは、自分たちが直接的であれ間接的であれ、誰かの恣意的な操作を受けているなどとは知る由もない)。

私は常日頃から、ニュースや世論調査、テレビでの街頭インタビューの取り上げ方に強烈な違和感を抱いている(ワイドショーなどは、ただただ胸くそ悪いだけの存在だ)。

特に街頭インタビュー。

たとえば50人にインタビューしたとしよう。
そのうちの1人が、ある事柄について賛成意見を述べる。
残りの49人が否定的な意見を述べていたとしても、その賛成した1人のインタビューが放送されれば、あたかもそれが世論の総意のような扱われ方をする。

世論などいくらでも操作できることの典型だ。

編集する側の人間によって、恣意的な操作などいとも簡単に行えるのである。

同じようなことが、本書の中でも『テレビの「街の声」依存症』として述べられていた。

また、別の章では

今の世の中の流れを見ていると、「結論ありきの議論が自由に行われている」という壮大な矛盾がそこかしこに見つかる。

情報に対して受け身になりすぎることによって、思考の幅が萎縮する。

とも述べている。

特に前者は、官に近い組織で働いている私にとって、大きな拍手を送りたい指摘である。

官に限ったことではないのだろうが、「本部がこう言うから」「そんなことは想定していない」と決まり文句のように言う職員や、全ての条件が与えられており、公式に当てはめさえすれば解答できるお勉強は得意な人々に、日々辟易させられている。

「想定していない」は思考力の欠如に他ならない。

20章の『わざと雑にする』では、あいちトリエンナーレ2019で開催されていた『表現の不自由展・その後』が中止になった出来事を例に、「ズレた」意見でなく、「ズラした」意見の危うさを述べている。

この「ズラした」意見のことを、武田氏は「雑」と表現する。

わざと雑にしておくと、あらかじめ与えられている立場や、声の大きさによって、勝敗が決まってしまう。

視野を限定し、雑多であることを認めず、自分にわかりやすく見えているものだけが世界であるとする人たちが国を動かしているというのは、実に怖いことである。

この指摘を我が事として捉えてほしい人々には、きっと彼の声は届かない。そんな現実がなんとももどかしい。

重ねて言うが、本書の文体はわかりにくい。

それでも、各種メディアのあり方に疑問を抱いている人や、今の世の中は何かおかしいと感じている人には手に取ってほしい。

自分が感じていたモヤモヤはこういうことなのかもしれない、と、気づく部分があるはずだ。

続いては『たちどまって考える』(著:ヤマザキマリ)について。

本書は、コロナ禍を通して見えてきた、自分の頭で考えることの意味や意義について書かれている(こちらは大変読みやすい文体である)。

著者のヤマザキマリ氏は、10代の頃からイタリアをはじめとする様々な国での滞在歴がある。多様な文化的・歴史的背景を持つ人々との交流を通して得た知見や経験から、日本や日本人を俯瞰する。

私は、日本の民主主義は、いうなれば事なかれ主義のようなものだと感じている。

ヤマザキ氏は、民主主義の背景にあるのはヨーロッパの弁証論だとした上で、

議論や弁論が苦手な日本で民主主義は本当に機能しているのか、そもそも日本が目指す方向性は民主主義でいいのか。日本の文化に合った社会の作り方を考えなくてはいけないのでは。

と述べている。

そして、

自分以外の何かに責任を丸投げできる信頼に比べ、疑いには大いなる想像力と知性、そして自分の考えをメンテナンスする責任が問われる。民主主義国家というのはそもそも、国民の猜疑心によって司られるべきだと思う。

とも。

また、

特定の宗教的拘束のない社会で生きる私たち(日本人)は、倫理観を「世間体」と「社会」から学んでいると思われる。社会での人々の反応や風潮をにらみつつ、「こういうことをするとダメらしい」と抽出されたことが、多くの日本人の倫理観を象っているのではないか。

と指摘する。

自分の頭で考えたり調べたりはせず、周りと同じように行動する
疑問を持たない
ただ言われたことをやる

緊急事態宣言を発出するか否かの時期に、「政府が宣言を出してくれないとどうしていいかわからない」と平然と言う人がいた背景には、ヤマザキ氏の指摘するこうした日本人の倫理観もいくらか影響していたのかもしれない。

話が前後するが、頻繁に耳にする「不要不急」や「自粛の要請」という言葉は、先に述べた「雑」なものと言える(そもそも、「自粛」は文字通り「自ら粛(つつし)む」ものであって、他者から要請されるものではない)。

イタリアと日本を比較して何になるという感想を持つ人もいるかもしれないが、彼女の話には自身の経験に裏打ちされた根拠がある。

過去を学び、多様な意見に触れ、自分の頭で考える

彼女の言葉を借りれば、『自分の広辞苑を厚くする』ということである。

ボキャブラリーを増やして知識や教養を深めることは、会話や議論を豊かにするだけでなく、視野を広げ、思考力や想像力をも逞しくし、ひいては生きる力そのものを強くする。

ヨーロッパに比べ、日本では文化芸術が軽んじられる傾向にある(コロナ禍において、文化芸術=不要不急とされているのは嘆かわしい)。

文化芸術は『自分の広辞苑を厚くする』一助となることに、どれだけの日本人が気づいているだろうか。

あとがきにはこう記されている。

もとより私たち人類は、この地球から選ばれた、特別な生き物というわけでも何でもありません。しかし人々は、人類のみが延命に値する生き物だと思い込んでいる。知恵の発達が生き物の優劣の基準であるという根拠はどこにあるのでしょう。ウイルスに勝った、負けた、などという表現には、地球に対しての人間の横柄さが込められているようで、私にはどうも納得がいきません。

大局的、複眼的に物事を見つめる姿勢を見習いたい。

コロナ禍で旅に出られなくなっただけでなく、イタリアの家族の元へも帰れなくなり、これほど長く日本の自宅で過ごしたことはないというヤマザキ氏。コロナ禍を通して考えたことを綴った本書であるが、全編にわたって現代日本が抱える問題について客観的に述べられている。

コロナによりあぶり出された、いつからか水面下で蔓延していた日本や日本人の危うい問題(日本に限ったことではないかもしれないが)。多くの人に読んでほしい1冊である。

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東日本大震災から10年を伝えるニュースの中で、こんな言葉があった。

『福島第一原発でなぜ水素爆発が起こったかについては、10年経ってもわからないことが多い』

わからないことを正直にわからないと伝える。

「何がわからないか」がわかれば、向き合うことができる。

うやむやにするのとは違う。

調べても考えてもわからないことは多々ある。

場合によっては、わからないことはわからないままにしておく方が良いこともあるかもしれない(ただし、これは仕事や各種手続きには決して当てはまらないことを声を大にして言いたい)。

また、個人的には「なんとなく◯◯な気がする」に代表される、第六感のようなものは大切にしたい。

わからないことに出会ったときどうするか。

わからない、自分には関係ないと頭から決めつけ放っておくのではなく、なぜわからないのか、何がわからないのか、わからないなりに自分はどう思うのか考えることを放棄してはいけない。

世にはびこる『わかりやすさ』は上辺だけの情報。
言わば氷山の一角にすぎない。

自分で調べ、自分の頭で考えた上でわかりやすく伝えることに何ら異論はない。

だが、わかりやすい説明を聞いて、さもわかった気になるのは危険である。

なぜなら、そこには受け手側の思考が欠落しているからだ(発信する側の思考が欠落している場合も往々にしてあることを付け加えておく)。

武田氏の指摘するように、「わかること」と「わかった気になること」は違う。

前者には前提として、「わかろうとする」という能動性がある。
かたや後者は、「わからせて」という受動性しかない。

わかりやすく表現するために削ぎ落とした数多のものの中に、ダイヤモンドの原石が眠っているかもしれない。その中にある、一見すると関係がないようなものたちを組み合わせることで、新しい発見があるかもしれない。

わかりやすさのみを提供すること・わかりやすさのみを求めることは、人間の思考力や想像力を奪うことになりかねない。

第一、どういうものがわかりにくいかを知らなければ、どういうものがわかりやすいかだってわからないではないか。

わかりにくければ消化不良か?

消化不良になることが、自分で調べ、自分の頭で考えることに繋がらないだろうか。

たしかに考えないほうが楽である。
考えないほうが生きやすいかもしれない。

なぜなら、責任転嫁しやすいから。
批判だけなら、誰にでもできる。

誰かが考えてくれる。
自分は従っていればいい。
思うようにいかなくても、それは自分のせいじゃない。

だが、自分で考えないということは、自分の存在が「個」であることを自ら放棄しているのではなかろうか。

白と黒の間には、様々な濃淡のグレーが存在している。

わかりにくいものにこそ、物事の本質が隠れているのではないか。

思考力とは想像力である。
想像力とは思考力である。

今こそ、答えを提示しない問いが必要なのかもしれない。

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