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こんにちは、しろこです。
20代の頃は年1回のペースで予兆のない高熱(40度超え)に襲われておりました。しかも原因不明。でも決まって仕事の繁忙期が一段落した頃だったので、ストレスだろうね(-_-;)
そしてそのために無駄になったチケットの総額・・・多分5万じゃきかない(号泣)
そしてなぜか全て、無駄になったのは良い席のチケットだったとき・・・。
石丸幹二さんが『ジキルとハイド』で2度目の主演を務めた2016年。大阪公演の日程は3/25~3/27。
チケットを取っていました。
めちゃくちゃいい席でした。
・・・。
前日の夜に突然40度を超える高熱が出て、ただの紙切れと化しました・・・。
元々年度末は超多忙なのですが、この年度末は上司が緊急入院したために私が全てを引き受けることになったのです。それこそ上司のパソコンを開けてデータを引っ張り出すところから始まったぐらいの、かなり危機的な状況でした。なんとか目処が立った・・・と思ったら、今度は私が倒れた(苦笑)ちなみに倒れた日は私の誕生日でした。ハハッ、初めて入院一歩手前までいきましたよ。。
2018年に再演決定! よしリベンジ!!
発表された大阪公演の日程は3/30~4/1。
・・・。
またしても年度末。しかも自分が3/31付で退職する年度末。
2016年のトラウマがよみがえり、チケットは取りませんでした(T_T)
2023年に再びの上演決定! それも石丸幹二さんが演じる最後のジキルとハイド!!
しろこの悲願、7年越しで成就しました(感泣)
あらすじ
舞台は19世紀のロンドン。医師であり科学者でもあるヘンリー・ジキルは、「人間の善と悪の両極端の性格を分離できれば、人間のあらゆる悪を制御し、最終的には消し去ることが出来る」という仮説を立て研究を行っていた。研究はついに善と悪を分離する薬を人間で試してみる段階にまで達する。ジキルは理事会で人体実験の承諾を得ようとするが、病院の理事会は当然これを拒絶。ジキルの婚約者エマの父親であるダンヴァース卿は中立の立場を取るが、理事会はジキルの申請を却下。ジキルは親友のアターソンに、「理事会の連中は偽善者だ」と怒りをぶつける。
アターソンは、ジキルには息抜きが必要だと彼を売春宿『どん底』に連れていく。そこには客の視線を一身に集める娼婦ルーシーがいた。他の男と違い自分に興味を示さないジキルに対し、ルーシーは「(私のことを)自分(の体)で試してみれば?」と囁く。「自分で試す」――ルーシーのこの言葉に光明を見たジキルは、自分を実験台に薬を試すことを決意する。
真っ赤に輝く液体。ジキルは一気に飲み干した。ややあって現れた全身の激しい痛みや呼吸困難。腰は曲がり、声はかすれ、野獣のような人物――ハイドが現れる。まもなく、街では凄惨な連続殺人事件が立て続けに起こる。そしてその被害者には、ある共通点があった。
アターソンやエマは、誰とも会わず以前にも増して研究に没頭していくジキルを心配する。
ひとつの体に宿る二つの人格。最終決断を下すのは、ジキルかハイドか――。
主な配役
ヘンリー・ジキル/エドワード・ハイド:石丸幹二
医者であり科学者。人の善と悪を分離する薬を研究する/ジキルの中の悪。
ルーシー・ハリス:笹本玲奈
売春宿『どん底』の娼婦。自分にも紳士的に接してくれたジキルに好意を抱く。
エマ・カルー:Dream Ami
ジキルの婚約者。
ジョン・アターソン:上川一哉
弁護士。ジキルの親友。
ダンヴァース・カルー卿:栗原英雄
エマの父。病院理事会の主要メンバー。
(2023年4月21日 13時公演)
上演時間
【1部】13:00~14:25
【休憩 25分】
【2部】14:50~15:55
全体を通しての感想
大まかなストーリーは知っていたのですが、そういえば何で知ってたんだろう。。
覚えていないけど、『ジーキル博士とハイド氏』を昔読んだのかなぁ。。
そもそもミュージカル『ジキルとハイド』を観たかったのは、曲を手掛けているのがフランク・ワイルドホーンなのと、石丸幹二さんが歌う『時が来た』を生で聴きたかったからです。
こんな理由で観に行く人、多分あんまりいないですよね(;´∀`) 私は結構あるんです。『北斗の拳』とか『マリー・アントワネット』とか。。
セットも照明も全体的に暗く、物語全体に影を落とす役割を果たしています。話の顛末を知っているだけに、ジキルが歌う『時が来た』やルーシーが歌う『あんな人が』のように希望を感じる歌すらも、どこか切なく聴こえてしまう。
『時が来た』を聴きたいと思っていたのは私だけではなかったようで、歌い終わってからの拍手がすごく長かったです。拍手が終わるのを待ってから次の芝居に入ったので、拍手が長いことは織り込み済みだったのだと思います。これまでいろいろなミュージカルを観劇していますが、代表曲があるミュージカルでもあんなに拍手が長かったのは初めてでした。これが海外だと、「拍手が長い」「拍手の音が大きい」に「歓声」も加わるんでしょうね。
圧巻の絶唱。これが聴きたかったのです。
そして『時が来た』の後でさらに2曲歌ったことに衝撃を受けました(+_+;)
薬を飲み、ジキルの中にいたハイドが初めて現れたシーン。石丸さんの声もまとっている空気も全然違うものになり、ゾクッとしました。ジキルは雑味のない高めの声、ハイドはしゃがれた重さのある声。
ジキルとして演じている(歌っている)時と、ハイドとして演じている(歌っている)時は、いわゆる一人二役という感じですが(それでも同一人物が演じてるとは思えない声だけど。。)、後半のジキルとハイドが(おそらく1~2小節ごとに)掛け合いする曲はまさに妙技。右半身を正面に向けるか左半身を正面に向けるかで、視覚的にもジキルとハイドが入れ替わるのは分かりますが、いやちょっとあれは…『時が来た』が聴きたくて行ったけど、それ以上に印象に残る歌でした。石丸幹二の独壇場。
声でいうと、ジキルの親友ジョン・アターソンを演じた上川一哉さんは、貴公子役が似合いそうなテノールでした。
どこかで名前は拝見したことがあるような…でも観たことあったかな?と思って出演作を調べたら、2022年の『北斗の拳』にジュウザ役でご出演だったようです(私が観たのはWキャストだった伊礼彼方さんの回)。
声つながりでもう一つ。
ダンヴァース・カルー卿、最初に登場した瞬間から目を引く渋さです。
実は主演の石丸さん以外のキャストをチェックしていなくてですね…。ルーシー役が笹本玲奈さんだというのも劇場内のキャスト表で知りまして(←をいをい)。チケットを取る時にWキャスト一覧表は見たけど、すっかり忘れてました(^_^;)
で、ダンヴァース卿を見た時に、今井清隆さん?と思ったんです。
それが途中で、「この声って・・・まさか大江殿!?」と思って観劇後にキャストを確認したら、はい、大江殿こと栗原英雄さんでした! 渋い!
髪の毛とヒゲのボリューム+メガネを掛けていたので見た目では分かりませんでした。声で気づいた自分にびっくりです(笑)
演出に関しては、1部ラスト、ハイドが大司教を追い詰め殺害に至るまでのシーンが見ものです。
壁を背にした大司教に、ハイドが上から液体を掛けます。液体=油というのは想像がつきましたが、ということは殺害方法は火・・・でもそれをどうやって舞台で見せる?と固唾を飲んで観ておりました。
階段の上に逃げる大司教。ハイドが合図をした次の瞬間、階段の手摺に火がつき、大司教のいる踊り場も炎に包まれる!
本物の火。
もちろんしっかりと安全対策を取った上での演出だと思います。この作品の中でも特に緊迫感のある演出でした。
また、5人目の犠牲者である伯爵(名前忘れた。。)とルーシーの殺害方法も凝ってました。
ハイドの剛力で頭を壁に打ち付けられ、一撃で殺された伯爵。
頭が壁にめり込んだ状態で客席に背中とお尻を向け、こう言ってはなんだけどなんとも滑稽な最期・・・と思っていたら、ハイドが伯爵の頭を掴み、壁から引き出し顔を前に向ける。目を見開いた伯爵は顔面血だらけ、額には鋭い木片が刺さっている・・・。
壁にめり込んでいた時に、壁の向こうでメイクさんが必死にセットしたんでしょう。結構な大きさの木片だったので、刺さっているように見せるのも大変な技術だと思います。心の中でスタッフさんにも拍手。
ルーシーは普通に刺されましたが(「普通に刺される」という表現はどうなんだ…)、ベッドに仰向けに倒れた彼女の胸は血に染まっていました。刺した瞬間に石丸さんか笹本さんが仕掛けを操作したんだと思いますが、実に自然な流れでした。
ジキルが善と悪を分離する薬の研究を始めたのは、精神を患ったお父さんの存在があったから。
これだけを聞くと、優しい人というイメージを抱くかもしれません。
売春宿での立ち振舞だけを見ると、真面目で実直な人というイメージを抱くかもしれません。
エマやルーシーに対する態度だけを見ると、誠実な人というイメージを抱くかもしれません。
それぞれのシーンを切り取ると、ジキルの中にハイドとなり得る部分は見えない。
私は、ジキルの中に存在するハイドとなり得る部分は、「自分が絶対に正しい」と信じて疑わない心だと思います。
拙ブログの観劇レポでも何度か同様のことを書いていますが、正しいか正しくないかは、どの立場から見るかで変わるのです。
自分の意見や思いが通らないことで相手に対して憎しみを抱く。自分こそが正しい。それが分からない連中は愚かだ。押し殺していたその感情がハイドを生んだのではないでしょうか。押さえつければ押さえつけるほど、弾けた時の反動が大きくなる。
ハイドはあくまでもジキルの中に存在するのです。殺害するのは理事会のメンバーであることから、ハイドの中にはジキルの記憶がある。
ならばルーシーもターゲットにしたのはなぜか。
私は、ルーシーがジキルを愛していたからだと思います。
ハイドは自分を恐れるルーシーが憎かったのではなく、自分の中のジキルに繋がる部分を全て消し去り、ジキルを支配したかったのだと。
そう考えると、次のターゲットはエマとジョンだったはずです。
ジキルはハイドを、ハイドはジキルを、互いが互いを恐れていたのかもしれません。自分の中にある善の部分と悪の部分を認められなかった。だから一方を完全に消し去りたかったのではないか。
善悪
陰陽
興亡
全てのものは本来表裏一体のはず。光があるから影ができる。影があるのはどこかに光があるからである。
相反するものを理解できなくても、その存在を認識し「そういうこともある」と認めることができれば、ジキルとハイドは共存できたのではないだろうか。
なぜなら、程度こそ違えど、誰もがジキルとハイドとして生きているのだから。
ジョンやエマのような「善」だけの人間は現実にはいない。
いや待て、『世界は自分の見たいようにできている』と言ったのは誰だったかな。
それが真実なら、現実にジョンやエマのような人がいたとしても私には見えないということか(苦笑)
もう一つ本作を通して感じたのは、人は誰かの言葉で道を切り拓くことができるということ。
ジキルはルーシーの言葉がきっかけとなり、自分を実験台にすることを思いついた(ルーシーはそんなつもりで言ったわけではないけど)。
ルーシーはジキルの言葉に背中を押され、希望を見出した(ジキルからの手紙に夢中になり、逃げる時間がなくなってハイドに殺されるんだけど)。
自分の知らないところで、自分が発した言葉で前向きになれた人がいたら、それは素敵なことかもしれません。
ミュージカル『ジキルとハイド』の宣言文句は
『手にするのは愛か、破滅か――』
たしかにジキルは、愛ゆえに破滅する。
しかし、この物語が描くのは、そんな単純なものではないはずだ。
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