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『Never Say Goodbye』を上演することが発表されて、こう思われた方が多かったのではないでしょうか。
「真風さん、退団するのか…」
と…。
こんにちは、しろこです。
宝塚ファンは作品名を見て、トップさんの退団がなんとなく分かっちゃうんですよね。
いやー、、、いつかその日が来るとはいえ、今回は取り越し苦労でした(^o^;)
退団するものとばかり思っていたので、いつもは1公演1回の観劇ですが、気合を入れて公演期間最初の方と最後の方のチケットをゲット。そのおかげで、半分以上の公演が中止になってしまった中で運良く観劇することができました。
個人的には、せめてコロナが収束するまでは、もう少し余裕を持った日程を組んだ方がいいのではないかと思います。公演と公演との間隔を1ヶ月ぐらい空けるとか。それをしない諸々の事情はあるんだと思うけど。。
星組『王家に捧ぐ歌』もそうですが、今このときにこの作品が上演されるということは、偶然の必然としか言えません。特に今作『Never Say Goodbye』は、『自分たちの街を守りたい一般市民』『ソビエト』『ナチス』『オリンピック』『情報統制』『義勇兵』などが作品の重要な部分を締めており、否が応でも現在のロシアとウクライナが重なってしまいます。
だからなおさら、大劇場での公演期間が半分以下になってしまったことが悔やまれてなりません。
劇団四季のように全国に複数の劇場を持っているわけではないので、人気作でもロングラン公演ができないのは分かります(それをすると演者の役の幅が広がらないし、希少性がなくなるから興行である以上収益にも関係するだろうし、「いつでも観られる」というのは賛否両論あるはず)。でも、外箱公演は会場を抑える都合で仕方がない部分もあるとしても、兵庫と東京に専用の劇場を3つ(大劇場とバウボール)持ってるんだから、いっそのこと全公演2週間は中止になるという前提で、そうなってもできる限り公演期間を減らさないようにできないもんかなぁ。チケットの取り扱いの問題とかもあるだろうけど、なんとかならないもんかなぁ。。(TдT)
あらすじ
1936年。人気写真家のジョルジュは若かりし頃に閉塞感漂う故郷ポーランドを飛び出し、デラシネ(フランス語で『根無し草』)として各地を転々としていた。ある日、ハリウッドで開かれた映画の制作発表会でリベラルな劇作家であるキャサリンと出会う。映画の撮影地はスペイン・バルセロナ。バルセロナでは、ナチス政権下のベルリンオリンピックに対抗して人民オリンピックが開催されようとしていた。撮影関係者の下見に特派員として同行していたジョルジュは、現地で偶然キャサリンと再会する。キャサリンは、ソビエト連邦から招待を受けた作家仲間と共にモスクワに向かう途中、スペインの新しい共和国を取材に来ていたのだ。再会に喜ぶ2人であったが、人民オリンピック開幕を目前にしてクーデターが勃発、スペイン内戦が始まる。映画に出演予定だったバルセロナ出身の闘牛士ヴィセントは、故郷をファシストから守るため民兵組織『センチュリア・オリンピアーダ』の一員となり戦う決意をする。撮影関係者が帰国する中、ジョルジュとキャサリンはスペインの行く末をその目で見届けるため、混乱のバルセロナに残る。対ファシストとして一枚岩になったかと思われた市民も次第に主義主張が対立し、同胞同士で銃を向け合うようになる。「愛するものを守りたい」その一心で戦うヴィセントたちに心を打たれたジョルジュ。「スペインの現実を世界に伝えてほしい」そう言って自分の命ともいうべき撮りためたフィルムをキャサリンに託し、カメラを銃に持ち替える。
主な配役
ジョルジュ・マルロー:真風涼帆
世界的人気写真家。
キャサリン・マクレガー:潤花
アメリカ人の劇作家。
ヴィセント・ロメロ:芹香斗亜
闘牛士。民兵組織『センチュリア・オリンピアーダ』の一員。
フランシスコ・アギラール:桜木みなと
人民オリンピックの宣伝部長。PSUC(統一社会党)の一員。
コマロフ:夏美よう
ソビエト連邦文化省諜報員。
予備知識
<スペイン内戦>
1936年から1939年にかけてスペインに起こった内戦。人民戦線政府に対して軍部が蜂起。政府側はソ連と国際義勇軍の支援を受けたが、ドイツ・イタリアの援助を受けた軍部・右翼勢力に敗れ、フランコ将軍の独裁体制が成立した(デジタル大辞泉より)。
<ファシズム>
第一次世界大戦直後の1920年代初頭から第二次大戦終結時点の1945年までの約4半世紀間にわたり、世界の多くの地域に一時期出現した、まったく新しいタイプの強権的、独裁的、非民主的な性格をもった政治運動、政治・経済・社会思想、政治体制の総称(日本大百科全書より)。ムッソリーニのファシスト党、ドイツのナチ党に代表される。
<アナーキズム>
一切の政治的、社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立を望む考え方。無政府主義(デジタル大辞泉より)。
感想と考察
どうしたって昨今の世界情勢が重なる。本作のベースにあるのはスペイン内戦だし、似たようなテーマを扱った作品は他にもあるけれど、やはり今だからこそ、この作品を通して感じること・想像することがある。
どの台詞を取っても、現在と結びつけてしまう。自分でも、それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。
問題意識を持ち、心を寄せ、自分にできることをする。それしかない。
テレビやネットを見すぎて気分が塞ぐ、生活に支障が出ている人は、一旦情報を遮断しましょう。大丈夫、それは決して無責任なことではありません。自分に余裕がないときは人に優しくすることはできません。負の力の強さに引きずり込まれ、思考は暴走するし、視野狭窄にもなる(うつ病経験者は語る(;・∀・))。それと同じで、まずは自分が冷静になることが大切です。
ヘイトクライムや過剰な演説・ビラ配り・書き込みのように、短絡的な思考に走るのは言語道断。分断を助長し不安を煽る以外の何ものでもありません。新たな火種を作って何を目論むのか。
『Cool Head, but Warm Heart(頭は冷静に、心は温かく)』
10年に渡りUNHCR国連難民高等弁務官としてご活躍された緒方貞子さんも引用されていた言葉です。
あ、そうそう、今回は「◯◯さんのここが良かった!」みたいな感想はほんのちょっとしたありません。終始、非常に真面目なトーンでいきますので、テンション高めの観劇レポを期待する方はページ閉じちゃってください。「なんだかんだでしろこの真面目な話が好きなのよね~」とおっしゃる稀有な方は、どうぞこのままお進みください(笑)
舞台が持つ力は間違いなくあるが、舞台は舞台である。血や火薬のにおい、糞尿のにおい、土埃、爆撃音、振動、温度などは決して伝わらない。現実は芝居の比ではない。
「こいつ、死んだらええのに」と思う人物が都合よく暗殺されたり、囚えられた女性が全く無事で救出されるなんてことは、現実にはないだろう。舞台や映像作品によくあるご都合主義だ。
それでも、内臓を掴まれる感覚というか、腹に鉛が入っている感覚というか、何とも言い難い正体不明の感覚があった(1幕終演後すぐにワイワイキャッキャしていた人たちもいたけどね…)。
宝塚は1本物の作品でも最後にちょっとだけショーがつくので、後味の悪い芝居でも大抵はそこで気持ちがリセットされます。今回もショーでかっこいい演出があったので一瞬テンションが上りましたが、劇場を出てから家に帰って布団に入っても、モヤモヤとは違う何かが取れることはありませんでした。
内戦が始まったバルセロナに残ったジョルジュが言う。
『何が真実で何が嘘か見極める』
真実の顔をした嘘もあれば、嘘の顔をした真実もある。だとすると、どうすればそれらを見極めることができるのでしょうか。言論の自由や表現の自由が保障されている国でさえ、自由を履き違えている人間や、自分の考えと相対するものを徹底的に排除しようとする人間が必ず一定数は存在するのに。
自分も含め、たかだか人間無勢に、見極めるなんて大それたことができるとは思えない。
それを自覚した上で、多様な意見に触れ、歴史から学び、自分の頭と心で考える。見極めよう、解決策を見出そうと努めることが大切なのである。
戦争でも人種でも民族でも宗教でも、簡単に答えが見つかるようなことなら、そもそも問題にはならないのだから。
(戦争が起こり)『昨日までオリンピックに浮かれていた国が…』
たった1日で自分の置かれている状況が激変する。当たり前にあったことの何もかもが変わる。自然災害と隣り合わせの国に住んでいても、たとえある程度の想定をしていたとしても、自分の身に降りかからなければ実際の肌感覚は何も分からない。ましてそれが戦争によるものだったらどうだろうか。
すぐそこに武器やシェルターがある国。なぜ武器があるのか、なぜシェルターがあるのか、残念ながら、そのあたりのことを深く掘り下げているメディアはほとんど見当たらない。
なぜだろう。
『Never Say Goodbye』観劇後にスペイン内戦について調べてみた中に、そのヒントがあったように思います。
それは、「簡単に説明できるものではない」ということ。
ためしに『スペイン内戦』で検索してみてください。専門家もそうでない人も、様々な人が様々なことを書いています。内容の真偽は私には分かりません。ただ共通しているのは、民族、宗教、経済、立地、イデオロギーなど、ありとあらゆることが長年に渡り複雑に絡み合って起こったということ。正直、読んでいて頭が痛くなってきます。そして、読んですんなり理解できるものではありません(2017年にカタルーニャで独立を問う住民投票が行われたことを考えると、スペインでは現在進行形の問題でしょう)。
だから、今回のロシアとウクライナの問題を「分かりやすく」解説した番組や記事には、眉をひそめざるを得ません。参考程度に留めておきましょう。
とはいえ、分からないからといって目をつむり耳をふさぐのは違う。
冷静な思考を持っている人間なら、対話が重要というのは言われなくても分かるだろう。しかし、視野が狭かったり思考が固まっていたりして、話にならない人間だっている。
日本やアメリカなど、情報統制のない国に住んでいる人間の中にもそんな人間がいるぐらいだ。だったら、情報統制され、偏った教育を受け、外の世界を見ることができない環境で生まれ育ったら、「おかしいのではないか?」と感じることすらないのかもしれない。
情報統制を糾弾されたコマロフは言う。
『知らなくてもいいことは知らなくていい』
やましい部分がないのであれば、情報統制などしない。やっている本人やその周辺は、やましいとすら感じていないのかもしれないが。
『メディアリテラシー』という言葉が生まれたように、情報は時に諸刃の剣となる。それでも、知る権利はいかなる個人にも保障されるべきだと思う。知らなければ、考えるきっかけすら得ることができないからだ。
自覚なく考えることを放棄してきた結果、簡単に洗脳される人間がいるのも事実。
意見があっても何らかの理由(密告や処罰への恐怖、周囲との関係性など)で口をつぐむ人々がいるのも事実。
情報を流すのがメディアである以上、戦争や政治はプロパガンダの応酬であることを肝に銘じるべきだ。たとえ心ある人が流した情報でも、切り取られた一部のみが独り歩きすることもある。加工され利用されることもある。
混乱に乗じて主義主張を唱え、権力を掌握しようとする者たちがいる一方、ヴィセントは武器を取り言う。
『俺たちは愛するものを守るためだけに戦う』
戦う相手は、会ったこともない同じ人間。
自分と同じように顔があって、感情があって、好きなものがあって、嫌いなものがあって、息をしていて、日々を生きている人間。
そんな何の恨みもない相手を殺せるものなのか。いや、会ったこともないから殺せるほどに憎めるのか。
そんなふうに思うのは、私の頭が平和ボケしてしまっているからなのか。
それができてしまうのが、戦争なのだろうか。
敵とは何か。
目の前にいる人間は本当に敵なのか。
目に見えない思惑や陰謀が暗躍していたとしても、最前線にいる人々にそれを知る術があるだろうか。
国と国との関係と、個人と個人との関係は違うはずである。
相手の国に1人知り合いがいるだけで、目線は変わる。私自身、数年前に趣味の集まりでウクライナ人に出会った。話したのはたった2、3回。会ったことすら忘れていたけれど(もちろん顔も名前も覚えていない)、あの人は今どうしているのだろうかと思う。
分類し同一視するのは人間の専売特許だ。
「日本人は礼儀正しい」
そうでない日本人だっている。
「アメリカ人は陽気だ」
そうでないアメリカ人だっている。
一人ひとり顔や名前が違うように、性格や考え方も違う。普通に考えれば至極当然のことなのに、争い事になるとどうして「国=個人」「民族=個人」という図式になるのだろうか。
根なし草のジョルジュは、一心に大切なものを守ろうとするヴィセントたちの姿に心を打たれ、自らも義勇兵となり命を落とす。
彼を変えたものを『愛国心』という言葉で片付けるのは危険かもしれない。なぜなら、愛国心とは時に排他的な方向へと向かうものだからだ。行き過ぎた愛国心がファシズムへとつながる。異を唱える同胞を粛清するように。
しかし、徹底的に支配され、虐殺され、言語も自由も土地も何もかも奪われ虐げられてきた歴史があれば、たとえ不利な状況でも徹底抗戦を選ぶのも分かる。
常にAかBかの二者択一を迫られる。そこにCやDの入る余地ははたして無いのだろうか。
エルトゥールル号事件のように感謝が語り継がれることもあるが、根深い問題を孕む恨みや憎しみは、世代を超えて語り継がれる。自分自身が何かされたわけではないのに、さも自分が何かされたように刷り込まれる(私はこれを、10代の頃スコットランド人に対して「English」と言ってしまったときに心底思い知った。そのときはなぜ怒られたのか分からなかったが、あとでスコットランド人の先生に話したら、「300年前にイングランドがスコットランドを征服したことを今でも恨んでいる人々がいる」と言われ絶句した)。
日本と近隣諸国との間にも同様のことが言える。勝っても負けても、戦争に真の勝者はいない。
歴史を忘れてはいけない。だからといって、固執するのは違うと思う。
起こった事実は変えられない。この世にリセットボタンなど存在しない。
歴史をたどると、どこかの時代に必ず似たようなことが起こっている。たとえ時代が違っていても、人間が関わっている以上、問題の本質は同じなのではないだろうか。
なぜそうなったのか。
短期的・長期的にどのような経過をたどったのか。
そこから何を学び取れるのか。
攻め入った側も攻め入られた側も、最も影響を受けるのは一般市民である。悲しいかな、独裁者を生み出すのもまた、一般市民なのだが…。
先のオリンピックでも感じたが、国益や国のメンツが個人の尊厳に勝るとは私にはどうしても思えない。元々は負傷兵のリハビリテーションから始まったとされるパラリンピックが今開催されていることも、偶然の必然なのだろうか。
戦争特需で富む者もいる。
ここぞとばかりにパワーゲームに持ち込もうとする者もいる。
詐欺をはたらく者もいる。
弱みに付け込み儲けようとする者もいる。
ただし、戦争により
死ぬ人や生き物がいる。
怪我をする人や生き物がいる。
飢える人や生き物がいる。
暮らしを奪われる人や生き物がいる。
決して消えることのない傷を残す。
環境が破壊される。
歴史的遺産が消え去る。
勝っても負けても禍根を残す。
これらは紛れもない事実である。
これを機に…と言っては語弊があるかもしれないが、もし銃を突きつけられたら、自分はどうするか。
死にものぐるいで銃を奪い取り相手を撃つか。
それとも相手を見据えて両手を広げるか。
良くも悪くも、この世の中にはありとあらゆる可能性がある。
世論や情報に惑わされず、何事に対しても日頃から「自分ならどうするか」を考えておく必要がある。
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本作の初演は2006年。当時のトップスター和央ようかさんの退団公演だったそうです。そして現トップスター真風涼帆さんの初舞台公演でもあったとのこと。
「当時は訳も分からず旗を振り回していた」とインタビューで答えていたのはこのシーンのことかな?と思ったり、「こんな娘役いたっけ?」とその力強さに目を奪われる人がいたり(普段は男役の留依蒔世さんでした)、ショーでめちゃくちゃかっこいい演出(マントを使っての男役の群舞)があったり、純粋に楽しんで観た部分も時々はありましたが、楽しめる作品ではありません。ご都合主義の部分もあるので、社会派の作品とも違うけど。なんてったって、ミュージカルだしね。
トップスターの退団公演であること、そしてタイトルの『Never Say Goodbye』からして泣ける作品なのだろうと思っていましたが、泣きませんでした。ウルッとはしたけれど、現実に思いを巡らせたら、泣いている場合じゃないと思えて。。
数ある作品のひとつとしていつも通り楽しむ人もいれば、この作品がきっかけとなって、今まで考えてこなかったことを考え始める人もいるでしょう。
どちらであってもいい。もちろんそれ以外でもいい。なぜならそれが、自由ということだから。
東京公演千秋楽まで上演し続けられることを心から願っています。
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