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作品を新鮮な気持ちで楽しみたいため、宝塚・その他カンパニー問わず、観劇に行くときは作品の予備知識を入れずに行っていました。
それが、何とは言わないけど宝塚で予備知識がないとついていけない作品に立て続けに当たり(演出家の手腕のせいだと思う)、それ以降はばっちり予習して観劇に挑んで(?)います。
こんにちは、しろこです。
今回の雪組公演『蒼穹の昴』、人物相関図を見て真っ先にこう思いました。
「専科生6人も出るの!?」
他のどの公演でも、専科生が出演するのはせいぜい2人(まれに3人?)までというイメージがあったので、かなりビックリ。
それも、京三紗さんを筆頭に、汝鳥伶さん、一樹千尋さん、夏美ようさん、悠真倫さん、凪七瑠海さんというメンバー。
なんというか・・・劇団のこの作品に掛ける気概みたいなものを感じました^^;
そして、この錚々たる専科生たちに対して全く引けを取らない雪組生。さすが芝居の雪組だ!
観劇に行っても、2~3作に1作は、「観劇レポ、どうすっかなぁ。。」と悩みます(苦笑)劇団公式HPの舞台写真や短い映像を見て、「そういやあったな、こんな場面…」と早々に薄れかける記憶を呼び起こし、頑張ってネタを捻り出して記事を書くことも結構あります(←言うな)。
記事を書くスピードと文章量は、作品を気に入ったかどうかのバロメーター。
真面目な話をするかどうかは、作品に自分を寄せて観ることができたかどうかのバロメーター。
今回の雪組公演『蒼穹の昴』の観劇レポ、久々に全ての基準をクリアしていますっ!
あらすじ
舞台は19世紀末、清朝末期の中国・紫禁城。「汝は学問を磨き知を広め、帝を扶翼し奉る重き宿命を負うておる」ーー。村に住む老占い師からそう告げられた梁文秀は、自分にそのような才能があるのか半信半疑ながらも、熾烈な科挙の試験に進み、程なく首席で合格を果たす。二等合格者の順桂、三等合格者の王逸とともに、晴れて光緒帝や西太后らに謁見した文秀は、歪んだ清国の政治の中枢を目の当たりにする。改革派の俊英として名を馳せる文秀だが、数々の思惑が交錯する紫禁城で、進むべき道と憂国の熱き思いに翻弄されることとなる。一方、文秀とかつて義兄弟の契りを交わした極貧の少年・李春児もまた、老占い師から「その手にあまねく財宝を手にするだろう」と告げられる。その言葉に夢を託し、母と妹・玲玲を故郷に残して都へ上った春児は、宦官となり西太后の側近へと昇り詰めていく。人間の力をもってしても変えられぬ宿命などあってたまるものかーー。時代に翻弄されながらも、それぞれの信じる道へと懸命に進む者たちがいた。
主な配役
梁文秀(リァンウェンシウ):彩風咲奈
梁家屯の地主の次男。科挙に主席で合格し官吏となる。
李玲玲(リィリンリン):朝月希和
春児の妹。両親を失い、文秀に助けられる。
李春児(リィチュンル):朝美絢
貧しい農民の子。予言を受け、妹の玲玲を残して都に上る。
順桂(シュンコイ):和希そら
科挙の二等合格者。
光緒帝(こうしょてい):縣千
清朝第11代皇帝。西太后の甥。
西太后:一樹千尋
亡き清朝第9代皇帝、咸豊帝の側室。皇帝の代わりに政を行う。
白太太(パイタイタイ):京三紗
韃靼の老占い師。文秀と春児へ「昴の星」に導かれる宿命を予言する。
伊藤博文:汝鳥伶
初代内閣総理大臣。明治維新の立役者。
楊喜楨(ようきてい):夏美よう
大学者。改革派の筆頭。光緒帝の学問の師傅を務める。
栄禄(えいろく):悠真倫
内閣府大臣。西太后側近の権力者。
李鴻章(りこうしょう):凪七瑠海
漢人将軍。内乱を平定し直隷総督となる。
康有為(カンヨウウェイ):奏乃はると
公羊学者。
譚嗣同(タンストン):諏訪さき
康有為の弟子。
豆知識
科挙とは
隋から清末まで続いた、中国の試験による官吏登用制度。科挙は科目選挙の略称。科は科目で試験する学科目、挙は選挙で官吏を選抜挙用するの意。
登場人物について
光緒帝や西太后など、一部は実在した人物である。議会制を採用し、日本の明治維新やロシアのピョートル大帝の新政を模範として近代的国家を樹立する目的で、康有為を中心とする革新派の若手官僚が光緒帝のもとに結集し、1898年、戊戌(ぼじゅつ)の変法を起こすも失敗。康有為らは亡命するが、譚嗣同はそれを拒み、自ら進んで処刑されたという(一部は史実に基づいた演出ですね)。なお、劇中では描かれていないが、戊戌の変法自強運動に対して、西太后を中心とする保守派が反撃・弾圧した戊戌の政変により光緒帝は幽閉され、1908年に死亡。西太后は、光緒帝が死亡した翌日に死亡したと言われている。
全体を通しての感想
冒頭は村の居酒屋でのシーン。
彩風咲奈さん演じる文秀含め、登場人物はみんな素朴で気のいい人たち。衣装の色合いも濃いくすみカラーです。実は(?)、汝鳥伶さん、奏乃はるとさん、真那春人さん、久城あすさん、諏訪さきさんという豪華な顔ぶれが1人2役で出演しています。
その後登場する、見るからに貧しい少年と少女。
それが朝美絢さん演じる春児と、朝月希和さん演じる玲玲です。衣装もさることながら、メイクも汚れた感じで、一瞬誰だか分かりませんでした。
「朝月さん、退団公演なのに…」と、ちょっと引いちゃうぐらいの汚れっぷり(文秀に引き取られて都に来てからは、登場する度にキレイな出で立ちになったので良かった^^)。
こんなトーンで始まったので、紫禁城のセットは豪華絢爛そのもの。
大階段に赤い布を敷いて、その上に光緒帝が座る玉座を設置。まばゆいばかりの衣装で、どの衣装にも凝った刺繍がほどこされています。官吏役の衣装は黒を基調としており、その分刺繍がよく映えています(位により刺繍の柄が違う)。遠目に見ても、いい生地使ってるんだろうなと思うぐらいの艷!(中国から輸入した生地を使って製作したそうです)。
クライマックスで登場する、遠近法を使った赤い壁~巨大な船のセットも、「いや~、うまいこと作ってるな~」と感心しました。セット転換もスムースだし。
ここ数年、どの公演でもお約束になっていた映像の使用はほとんどなかったので、完全に人力の物理的なセット。それであれだけ臨場感たっぷりに見せられるのは、役者とスタッフの共同作業が為せる業ですね。
本作『蒼穹の昴』、いろんな意味で印象に残ったシーンが複数ありました。
まずはやっぱり、文秀と春児のぶつかり合い(思いをぶつけているのはほぼ春児ですが)。前半と後半で2度あります。
前半のぶつかり合いは、何気ない文秀の言葉が極貧の少年の矜持を傷つけたことによって起こるもの。感情を抑えきれない春児と、戸惑う文秀の対比が見ていて辛い。春児は、張り詰めていた糸が切れて、自分で自分を制御できなくなっていたのだろうなと思います。
後半のぶつかり合いは、一時は袂を分かったものの、春児にとって文秀はかけがえのない人であり、その人が責を負って死に向かおうとすることに居ても立っても居られなくなったことによって起こります。取り乱す春児と、全てを達観して春児を諭すように喋る文秀の対比が、これまた見ていて辛い。
朝美さんは、全編を通して声を高めに作っています。
少年時代の声を高くするのはよくあることですが、大人(と言っても、まだ10代かも?)になってからも高い声のままだったのは、宦官だからかなと思っていました。
でも、後半のぶつかり合いを見て、ああ、この人の心は子供の頃から何も変わっていなかったんだろうな。だから、見た目や立場はすっかり変わってしまったけれど、声だけは昔のままだったのかなと思いました(深読みしすぎ?)。
子供の頃の笑顔も、亡命する文秀と玲玲を見送るラストシーンの笑顔も、満面の笑みなのに哀しみが透けて見え、切なかったです。
朝美さん繋がりでもうひとつ。
眞ノ宮るいさん演じる黒牡丹(ヘイムータン)との殺陣と京劇は見ものですよ!
特に京劇は、重たくて動きにくそうな衣装をつけているだけでも大変そうなのに、その格好で西洋のダンスとも日本の舞踊とも全く違う京劇特有の舞を舞います。相当稽古を積まれたことと思います。序盤で登場する舞龍(ウーロン)もですが、タカラジェンヌって何でもできるようにならないといけないのよね。。ほんとすごい。。
続いて印象に残ったのは、和希そらさん演じる順桂の思想。
順桂の西太后に対する憎しみは、他の登場人物の比ではありません。見方によっては恐ろしいまでの思い込みとも取れます。
望むと望まざるとにかかわらず、他者の意見に触れることなく、自分の半径数メートルが世界の全てと思われる場所と人間関係の中で生きてきた人にありがちな、凝り固まった思考。世代を超えて憎しみを植え付けられて育ったのかと思います。
なぜここまで西太后を敵視するようになったのか、原作では描かれているのでしょうか。観劇後すぐに原作を買ったので、これからじっくり読んでいきます。
西太后を爆弾で殺し損ね、近づいてきた少女を身を挺して守るように爆弾に覆いかぶさった順桂。
順桂には子供がいたようです(公演プログラム、和希さんのインタビューより)。帰宅後にプログラムを読んでそのことを知り、あのシーンが脳裏に蘇ってきました(芝居の中でも「妻子がいる」という台詞はあったのかもしれませんが…)。
2幕冒頭、銀橋での順桂のソロ。
「ん」の音で伸ばすのは技術的にとても難しいのですが、そんなことは一切感じさせない響きと広がりのある歌でした。声の張りといい音程の正確さといい、和希さんの歌はずっと聴いていたくなります。
歌繋がりでいくと、西太后を演じる一樹千尋さんのソロも深みのあるものでした。
一樹さんの長い尺の歌(しかも女役での)は初めて聴きましたが、まさに女傑を思わせる、轟くような少ししゃがれた低音です。
若さゆえに物事を大局的に見ることができなかった、縣千さん演じる2幕の光緒帝。
結局は奏乃はるとさん演じる康有為の操り人形のようでした。
正しいと信じて、康有為が唱える改革を右から左へと次々に断行していく光緒帝ですが、周囲を顧みない強権的な姿は、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の源頼家を彷彿とさせるものでした(ご覧になられていない方はなんのこっちゃですよね(;´∀`))。
ただ、光緒帝は決して暴君などではなく、康有為の意見は文秀たち官吏の総意だと思っていただけ。総意ではなかったと知った瞬間、はっきりと自分の非を認める素直さとある種の覚悟が見て取れます。史実ではこの後、光緒帝は幽閉されたまま死亡します。私も観劇後に歴史を調べて初めて知ったのですが、史実を知っている人が見ると、いっそう胸に迫るシーンかもしれません。
そして忘れてはならないのが、専科の皆さんが演じた人物たちの姿勢(悠真倫さん演じる栄禄のように、箸にも棒にもかからない人物ももちろんいます(^O^;))。
責任を取ること、潔く後進に道を譲ること、憎まれ役を引き受けること、決断すること、若者に勇気と知識を惜しみなく与えることなど、今の政治家たちに見習ってほしいものばかりです。栄禄のような人物ばかりでは、国家の衰退と滅亡は時間の問題であり、すでにそれは現実問題となっています。
朝月さん含め、娘役の皆さんは、残念ながらこれと言った見せ場がありませんでした。時期トップ娘役の夢白あやさんも、謎の美女ミセス・チャンという役だったけど、取ってつけたような役というか、重要性が不明(舞台化の都合上、背景を端折っただけかもしれないけど…と思っていたら、東京千秋楽のライブ中継を見て、どういう立ち位置だったのか判明しました^^;)。まあ、男たちの群像劇みたいなものだから、しょうがないっちゃしょうがないんだけどさ。。でももしかすると、原作では女性がほとんど登場しなくて、これでも頑張って全員に役を付けたという可能性もありますよね(ーー;)
一本物の公演でも、最後にちょこっとショーが付くのが宝塚の良いところ。
和希さんのソロから始まり、続く男役の群舞は静かな曲で。黒のタキシード(というのか?)+ゴールドの透かしの羽織物+黒の扇がセクシーでした。
男役の群舞が終わり、娘役が大階段から下りてくるのと入れ違いで、大階段を斜めに上ってはける演出は新鮮☆
娘役と彼女たちを従えて踊る朝美さんの衣装は・・・う~ん、さっきの男役の衣装がものすごく素敵だっただけに、なんか・・・うーん。。少なくとも私好みではないorz
そして、彩風・朝月コンビ最後のデュエットダンスへ。
彩風さんと朝月さんが手を繋いで大階段から下りてくる!!
ありそうで意外とない演出!! くうっ、ニクイぜ!!
『蒼穹の昴』では役としてがっつり関わることがなかったので、その分デュエットダンスを楽しみにしていたのですが、リフトのタイミングが合わなかったり、踏ん張っている方の足が滑ったり、ヒヤッとするシーンが多かったの(;_:) どこか痛めてるんじゃなければいいけど…。その分、拍手は温かかったです。銀橋でのハグも、いつも以上に力がこもっていました(*^^*)
パレードでは、本作出演者の層の厚さを再確認。朝月さんが大階段の真ん中で歌っているときに、専科の皆さんが舞台袖から中央に登場。芝居ではさすがに一堂に会するシーンはなかったので、あまりの豪華さに目を見張りました。このおかげで、朝月さんの歌がいつもより長かったです♪
雪組『蒼穹の昴』、「宝塚観たー!」という感じではなく、「芝居観たー!」という感想です。
劇場から一歩出ると、蒼穹の空が広がっていました。
蒼穹を見上げてふと、「俺たちを見て、お前はどう生きるんだ」と文秀に問われた気がしました。
文秀や光緒帝の生き方が示すように、思いだけではどうにもならないことがある。
一方、春児のように、思いだけで運命を切り開いた者もいる。春児は、白太太の予言は嘘だと分かっていながら、その嘘を夢に見、現実のものとすべく脇目も振らず突き進んだ。
死ぬことよりも生きることの方が難しい。
生き残った者には、果たすべき責務がある。
幕末から明治にかけてのドラマではよく耳にする台詞ではあるが、状況は違えど、現代にも当てはまる表現だと思う。
文秀は物事を大局的に見ることができる人物である。その文秀をして、改革の妨げとなる者は弑することもやむなしと考える。
問題は、その後のことをどれだけ考えているかだ。
クーデターはあくまでも、目的を達成するための手段にすぎない。クーデターを起こしてでも成し遂げたい明確な目的と、それを実現する手腕がなければ、長期的な賛同など得られるはずもない。
現実世界でも、独裁者を倒したはいいが、独裁政権だった頃の方がマシだという場合があるのはこのためである。
利害で結びついた者同士は、一つ事を成せば、途端に権力争いを起こす。
立場に浮かれ、欲を出し、特権意識を持つ。
果ては、自分たちが忌み嫌い、討伐の対象とした憎むべき人物に、今度は人物たちがなるのである。
歴史が証明するように、清廉潔白な国家などありはしない。
歴史を語るのは勝者だ。もし敗者が語れるならば、今我々が知っている歴史は、全く異なるものとなっていただろう。
世の中の全ての問題は、想像力の欠如によるものに他ならないのではないだろうか。
この混沌とした時代をどう生きるかーー。
それを決めるのは、他でもない自分自身だ。
たとえ答えが出なくとも、一人ひとりが考え続けていかなければならない。
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